2010年5月12日
スモレンスク
ロシア連邦の山梨 デリヘル 出勤速報西方の都市である。モスクワからは西南西へ360km、スモレンスク州の州都。
城郭都市であったスモレンスクはヨーロッパからロシアへの通り道に当たり、歴史上何度も攻撃に晒され破壊された。ロシア・ポーランド戦争、ナポレオンのロシア戦役、独ソ戦などでも戦場と化している。今日のスモレンスクは電子工業、繊維産業、食品産業を主とする工業都市である。歴史的な建物として、生神女大聖堂と16世紀に建てられたクレムリン(城塞)がある。「スモレンスクのイコン」は有名。
都市の名前の由来は諸説ある。スモルニヤ川という小川に由来する説があるが、川の名前の由来はよく解っていない。黒土地帯を流れることから、黒土を意味する古いスラブ語が川の名になったと言う見方もある。都市名の由来のもう一つの説は、松脂を意味するロシア語の smola からきているというものもある。この一帯は松の木が多く茂っており、かつては松や樹脂に関する産業が盛んだった。
街にはドニエプル川が流れる。周囲は東ヨーロッパ平原の中ほどに東西に伸びるスモレンスク高地となっており、その東方はモスクワ高地へと繋がり、南は中央ロシア高地に続いている。
スモレンスクはロシア最古の町のひとつである。文献で最初にスモレンスクが言及されるのは863年のことで、リューリクがラドガに政権を築いた直後のことである。「原初年代記」によれば、スモレンスク(最初はドニエプル川のやや下流、現在のグネズドヴォ遺跡の位置にあったと考えられる)は、オレグがノヴゴロドからキエフへと遠征した882年にはクリーヴィチ族の首邑であり、このときにオレグらに征服されキエフ・ルーシに組み込まれた。その20年前、リューリクの部下で南方へ使わされたアスコルドとジールがドニエプルを下った際にも人口が多く町も大きなスモレンスクの横を通っており、これを襲っている。
この町について最初に書物に記した外国人は東ローマ皇帝コンスタンティノス7世である。その著書『帝国統治論』(De Administrando Imperio, 950年頃)では、スモレンスクを、北欧からロシア内陸の河川を経て黒海に至る交易路「ヴァリャーギからギリシアへの道」の主要な中継地と述べている。ルーシ人はバルト海からダウガヴァ川を船で遡って行ける所まで行き、最上流部で船と荷物を川から上げ、船を引きずって丘を越える道(連水陸路)を歩き、ドニエプル川上流で船を下ろして黒海に下っていた。おそらく彼らはスモレンスクで船の修理を行った。この地で豊富に取れるタールを使って、陸で船を引きずったときにできた穴や隙間を埋めて修理したため、「タール」を意味するスモレンスクの地名が生じたと考えられる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
スモレンスクはドニエプル川沿いに位置しています。
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